立川談志さんの落語を聞いた事ない方でもテレビでのトークなどでのその破天荒ぶりは有名ですよね。
これほどまでに、好き嫌いがはっきり分かれる噺家さんも珍しく、私は落語を聞いてるだけなので、立川談志さんの人となりは分かりませんが、本当にある意味伝説の噺家さんなのではないでしょうか。
数々の伝説を残した立川談志
- 落語家としての始まりは、16歳で五代目柳家小さん師匠に弟子入りする、前座名を柳家小よし。
- 1954年、二ツ目に昇進 柳家小ゑんと改名。
- 寄席での噺家としての活動だけではなく、コントや漫談など活動の幅を広げる。
- 1963年、真打に昇進。 立川談志を襲名する。
- 1966年、笑点の放送開始。初代司会者となる。しかし、1969年視聴率が伸び悩み、立川談志は降板する。
持ち前のブラックユーモアを全面に出したかった立川談志とレギュラーメンバーとの間に対立が生まれ談志は降板する事となった。ただ笑点を企画したのは立川談志であり、その後も笑点との関わりは僅かではあったが続いていた。 - 政治活動 1969年衆議院総選挙に無所属から立候補するも落選。その後、1971年参議院選挙において初当選を果たし政治家への道を歩み始めるが、度重なる問題発言などが原因なのか在任期間は一期のみ。
- 立川流の創設 落語協会分裂騒動の後は落語会は揺れに揺れていた。その中で真打昇進試験制度の一件で師匠柳家小さんと対立する事となる。その後、立川談志は落語協会を脱退し、立川流を創設する。
- その後は落語だけではなく、テレビやラジオなど活躍の場を広げる立川談志だったが、病との戦いも生涯に渡り続いていく事となる。
- 2011年11月21日死去(75歳)同年3月6日立川談志一門会にて、「長屋の花見」「蜘蛛駕籠」を披露。これが生涯最後の高座となった。
立川談志の落語
私は生で落語を見れた事はありません。CDやDVDでしか拝見した事がないです。なんせプラチナチケットですからね。チケットなんか取れませんでしたから。そして談志さんといえば古典落語。それも立川談志の古典落語とでもいいましょうか、談志さんの解釈で古典落語もオリジナルのような話になっています。
多くの方が天才と口を揃え、多くの弟子が立川談志さんに憧れ立川流の門をくぐった訳です。
落語会に新たな道を作った立川談志さん。その独創性豊かな落語は、落語ファンだけではなく多くの人に聞いて頂きたいものです。
最後に
立川談志さんと言えば、落語を知らない人だと、破天荒な言動や行動で良いイメージが無いかもしれないですね。
ただ、私が思うに本当に落語が好きで正直で純粋な人だったのではないかな?と思うんです。
小さん師匠との対立や笑点メンバーとの対立など、落語や芸に対して絶対引かない姿勢が物語っています。
そして高座での談志さんのマクラの長さはほんと凄かったそうです。マクラだけで1時間近く喋る事もあったそうで、それは知識、経験はもちろんの事、つねにアンテナを張り巡らせて生きているからこそ出来る芸当だと思います。「俺より上手い落語家はいねぇ」そんな発言も落語に対する思いと努力から出た自分への自信なんですよね。
メディアの取り上げ方一つでイメージが180度変わってしまう世の中ですから、立川談志さんの落語を聞いてもいない人も多いでしょう。ですが、一度じっくり聞いてみて下さい。立川談志が天才と言われたのは何故か?それは実際落語を聞いたら答えは出るのではないかと思います。